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  • 「九条俳句裁判」から考える、大人が学び続けるということ
  • 投稿日:2016年11月28日

 あなたは普段、「大丈夫」ということばを頻繁に使っていませんか? こんな問い掛けからはじまった学習会。11月16日、「九条俳句裁判」の原告の方と社会教育専門の安藤聡彦先生(埼玉大学教授)をお招きして当事務所恒例の学習会を開催しました。多くの方にご参加いただきました。ありがとうございました。

 「大丈夫」が蔓延する昨今の社会は大丈夫ではない事態が進行している。本当はつらいのに相談できずに大丈夫と言ってしまったり、もう現状は変わらないから、議論をしたくないからと大丈夫と言ってしまう、「大丈夫」の背景には「問題がない」ことを相互に求めあう・「忖度文化」が強く表れているとのお話がありました。

 九条俳句裁判は、『梅雨空に 「九条守れ」の 女性デモ』という俳句が、「政治的中立」を理由に公民館だよりに掲載されなかったという事案です。たまたま出がけに遭遇した女性だけのデモに心揺さぶられ、その情景を俳句につづったと原告の方はおっしゃっていました。その俳句は、所属する句会で特選に選ばれましたが、さいたま市は掲載を拒否したのです。この時、原告の方や句会の方々は、さいたま市の説明に納得いかず(「大丈夫」と思わなかった。)、その後、もろもろを経て現在の裁判に至っています。

 安藤先生は言います、「大丈夫ではない」ということは一人では気づかないかもしれない、それを共有する人がいることが大事だと。学び続けるということで、気づきや共有が生まれる、「九条俳句裁判」は、踏みにじられた権利に気づき、それを回復するために多くの人が支援し、共有の輪が広がっている、これは普遍的な意義があることだと。

 自分の普段の仕事や生活ではどうだろうかと、とても考えさせられる学習会でした。そして、人は生きていくために学ぶ、学ぶことは生きること、という、その昔学生時代によく議論していたことを思い出し、懐かしさがこみあげてくる学習会でした。

 

                                             事務局 大内

 

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