「一般化の論証」で問題なのは、やっている人はプライドを持って良いことをやっていると思っているし、世間の人が自分たちと同じように良いことしかしなければ、社会が悪くなることはないと思っている場合です。この場合に、何故自分が刑罰まで受けなければならないのか、なかなか納得できません。
また、良いこととまでは思わなくても、さほど悪いことではないし、世間の人たちも自分程度なら社会にとってさほど悪いことにはならないと思っている場合もあります。この場合も、良いことではないけど、刑罰まで受けなければならないのか、納得できないことがあります。
何故、納得できないのでしょうか?
自分が悪いのではなく、真似して、又は悪用して悪いことをやる奴が悪いと思うからです。
確かにそうなのです。その人がやっていることは良い行為であったり、大した行為ではないのですが。それを許すと、その行為(医療行為、運転行為等)を真似したり、悪用する輩が多発する可能性があるのです。本当に悪いのはその人ではないのですが、いわば社会のための生け贄として、善人を処罰するはめになるのです。泣いて馬謖(バショク。三国志に出てきます)を断つということになります。馬謖は、命令違反をしたから悪いのですが、諸葛孔明の命令を行き届かす手段として処刑し、殺してしまいました。
このような場合、処罰の必要性や程度について悩みが生じます。
弁護士をやっていると、民事事件、刑事事件にかかわらず、良くこのような案件に出会います。
その場合、悪いこととして、処罰されたり、不利益処分を受けることを認め、そのことをどう説明し理解して貰うか。それとも、「一般化の論証」の限界を画すために争うかが問題になります。基準は、個別的利益を守りつつ、社会的利益を害さないぎりぎりの線引きということです。つまり、社会の人が真似しても社会が悪くならないギリギリを模索する作業をするかということです。
次回に、具体例で考えてみます。
弁護士 山 越 悟